16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。「合理的配慮」という言葉は障害者差別をなくすためのものとして生まれた概念であり、社会にも少しずつこの言葉が浸透しているように思う。ただ配慮は「心を配ること、気遣い」という意味がある中で、法的に義務化されるというのはしっくりこないような気もする。合理的配慮とはそもそも何か。
合理的配慮とは
「合理的配慮」という言葉が聞かれるようになって久しい。
「合理的配慮」という文言が障害者に対する差別を防止する意図で用いられた最初の例は、アメリカのリハビリテーション法の施行規則(1977年)だとされている。
日本では、2014年に国連の「障害者権利条約」に批准、同条第2項で「個人に必要とされる合理的配慮が提供されること」を義務として定められ、国内法である「障害者差別解消法」「障害者雇用促進法」にも取り入れられるようになり、認知が広まった。
「障害者を、障害を理由に差別してはいけない」のは大前提の上、さらに一歩先、「合理的配慮がなされていない場合、それは差別である」ということが「障害者権利条約」には書かれている。
合理的配慮の具体例とこれから
例えば、私が日常において合理的配慮をされているものとして、電車に乗るときにホームと電車との間にできる段差や隙間を解消するためにスロープを設置してもらうだとか、映画館で車いすのまま映画を観ることのできるスペースを確保してもらうとかがある。
最近泊まったホテルでは、本来ビュッフェ形式になっている朝食をウェイターがテーブルまで運んでくれたり、部屋に入る際、扉を開けてくれ、困ったときはいつでもフロントを呼び出すように言ってくれたりと、こちらの困りごとに気持ちよく寄り添ってくれた。
配慮がされなかった例としては、ホテルに宿泊をしようと予約の電話で車いすユーザーであることを告げたとき、床が痛むからという理由で宿泊を断られたことがある。
部屋に入るときにタイヤを拭いたらどうか、介助の人に同行してもらい抱えてもらって車いすでは部屋に入らないようにすればどうか、などと提案をしてみたもののけんもほろろで、とにかく車いすの人間は利用できないの一点張りだった。
車いすの人間でも使いやすいよう、こちらの意志を尊重しつつ最大限の配慮をしてくれる施設がある一方で、このような一方的な入店拒否はしばしば起こる。
今までは民間企業・事業者は努力義務、国・自治体の場合は法的義務と、法的な位置づけが異なっていたが、今年2021年に改正障害者差別解消法が設立し、今後は民間事業者においても合理的配慮が法的義務化されるようになる。
まとめ
ところで、合理的配慮とはそもそも一体何だろうか。
配慮とは「心を配ること、気遣い」という意味だが、それが法的に義務化されるというのは、言葉としてしっくりこない人もいることだろう。
合理的配慮とは、配慮する側から思いやりの発露として一方的に与えられる「心配り、気遣い」のことを指しているのではない。あくまでも機会平等の達成のために配慮する側が責任を持って提供しなければならないものであり、明確なルールや情報公開、当事者との建設的な対話をする場を求められている。
そのため、合理的配慮を求める障害当事者からの意思表明も必要であり、双方が納得することのできる妥協点を探るコミュニケーションが不可欠だ。
しかし、一言で合理的配慮といっても、合理的配慮は障害者一人ひとりが何を必要としているかや、その場の状況に応じた変更や調整など、それぞれが個別の対応となっている。
また、配慮する側にしても場合によっては限度があり(そのため法律には「負担が重すぎない範囲で対応に努めること」とある)、「この障害にはこうする」「この場合にはこう」といった紋切り型の対応にはなりにくい。
いかに目の前にある困りごとに対して双方の歩み寄りで問題を解決していくかという、お互いの交渉スキルがその場その場で必要だ。人道主義に基づいた高度な社会性が双方に要る、なかなかに高度な概念だと思う。
また、合理的配慮は障害者差別をなくすためのものとして生まれた概念であって、障害者手帳の有無や障害の種別問わず、障害の特性によって社会の中で困難さを抱えている人すべてが対象となるとされているが、実は「障害者権利条約」には「障害」の定義がない。
つまり「障害」は障害者にあるのではなく、個人と社会との関わりの中にあり、いつでもそれは変容しうる。世の中にある差別は何も障害者だけの問題ではない。
私は「合理的配慮」は健常者・障害者問わず、社会的な困難を抱えたすべての人のためのものであると認識している。
合理的配慮の目的は、お互いが理解し尊重し合い、すべての人が共に生きていく社会を目指すことにある。それには当事者も本人によるセルフケアを行う必要もあるだろう。
また、先に書いたとおり、合理的配慮を得るにはまず当事者による意思表明が重要だ。当事者にとって必要なものは、保護ではなく社会参加の機会である。
合理的配慮を求めることは好意に甘えることとは違う。
合理的配慮を提供する側に法的責任が伴う以上、求める側の当事者にも自立した個人としての責任が発生するということを胸に留めておく必要があると思っている。