僕には生まれた時から脚の長さに左右差がある「下肢長不等」という障害がありました。前回は、僕が海外で下肢長不等の手術を受けたところからリハビリ中に骨折を経験し、緊急搬送された所までお話しました。今回は、再手術から手術の合併症である感染症が発覚して緊急帰国に至るまでのお話です。
手術後の合併症と緊急帰国
こんにちは、しろくまです。
僕には生まれた時から脚の長さに左右差がある「下肢長不等」という障害がありました。
幼少期にはさほど気にならなかったこの脚の左右差ですが、三十代手前になって急に違和感が大きくなってきました。悩んだ結果、僕は海外で手術を受けることにしました。
前回は、僕が海外で手術を受けたところからリハビリ中に骨折を経験し、緊急搬送された所までお話しました。
今回は、再手術から手術の合併症である感染症が発覚して緊急帰国に至るまでのお話です。
再手術
両脚の大腿骨を切り取り、腰骨から膝上にかけての内部に金具を入れる手術を終えた僕は、滞在先でのリハビリ中に骨折をして再手術することになりました。
結果、再び経験することになった術後の貧血による眩暈と肩凝り、嘔吐。身動きが取れず、床ずれも再発。2、3日病院のベッドから起き上がれなくなった1回目の手術と同様の症状が出ました。
やはり、個人的には手術自体の怖さよりも、術後の約一週間が一番辛いと実感しました。
骨折した際、中の金具の一部も欠損していたことから再び取り換えを行ったらしく、全てがふりだしに戻る結果に。手術後の症状も落ち着き、身長の延長も順調に進み、ようやくリハビリが始まっていたところなのに、私の2カ月間は一体…。
「退院後、歩行器を使用したらまた骨折してしまうのでは?」と恐ろしくて、歩行器を使用し始める日数を前回よりも一週間以上延ばしました。
両膝下手術開始
再手術から二か月程経過して、歩行器を使いながら歩けるようになった僕は、ようやくベッドから立ち上がることができました。術後は浮腫んで太くなっていた太腿も、数ヵ月ベッドの上で生活をしていただけでカリカリに瘦せ細っていました。
「これは本当に自分の脚か…?」と疑いたくなる程の変化に、驚いたものです。
太腿の骨が一部無い状態にもかかわらず、内側で支えている金具と歩行器だけで歩けるようになったのは感動しましたが、まだまだ油断はできませんでした。
家政婦さんのサポートもあり、朝と夕方に家の中でリハビリを繰り返しました。
当然ながら両手を離す事は出来ないので、高い所の物を取ったり等の些細な動きは制限されていましたが、毎食時にキッチンまで移動して椅子に座り、食事をすることがどれだけ楽しいことかを噛みしめていました。
ベッドで食べるご飯より更においしく感じる不思議。
すると、毎日脚の状態の確認と、金具の延長をしに来てくれていた医師が「次の手術日が決まったよ」と伝えてくれました。次は、両膝下の手術です。
僕は元々筋肉質でしたが、数ヵ月おきの手術による点滴の繰り返しで血管が細くなっていたのか、浮き出てもこないし、なかなか針が入らない、等のハプニングはありましたが、手術は無事成功しました。
そしてまた、術後の嘔吐地獄再び…!慢性貧血だったので、術後の輸血は必須でした。
手術の内容としては、太腿骨のときと変わりません。
ただ、「今以上に身動きが取れなくなるだろうな…」ということは、医療に詳しくない自分でも想像に難くはありませんでした。
ここで、ちょっと補足~
ー ビザ更新
僕の行った某国は90日間の滞在であればビザ申請は必要がありませんでしたが、それでは到底足りなくなってしまいました。
90日を過ぎる前に医師に連れられ、車椅子でビザの更新へ行きました。治療の為の滞在であることを担当の女性に伝え、脚の状態も見せた上で許可を待ちます。意外にも、ほんの数分で終わりました。
医師曰く「日本の信用性は世界トップレベルだ。他の国の患者じゃ、こう早くは終わらないよ」との事だったので、「日本はやはり良い国なのだなあ」と感じた次第です。
ー お風呂はどうしていたのか
汚い話になってしまいますが、傷口感染症のリスク等を考えると湯舟に浸かることはもちろん、シャワーも殆どできない毎日で、濡れたタオルで身体を拭いたり(家政婦さんに拭いてもらったり)していました。
ただ、2週間に一回程度に医師が来たときのみ、ガーゼの上から防水のシールを何重にも張って、浴槽で椅子に座らせてもらい、その時のみ髪と身体を洗えました。
ふさがらない傷口~気付かない感染(合併症)
再びベッド上での生活が始まり、一ヵ月が経とうとした頃、変化が起こります。
術後、膝下の内部に埋められた金具が、膝の皮膚から目視でも分かるほどポコリと盛り上がってきました。
脚を動かす度に骨に当たって痛みましたが、「あくまでも内部に設置する金具が大きい為にそうなるだけで問題はない」との説明を受けて、そのときは気にしていませんでした。。
「盛り上がっている箇所を両手の親指で押して、カチリと音がしたら延長できている証拠」と医師は言っていました。スイッチのON/OFFを繰り返すように、脚の延長を行いました。
しかし、変化は違和感へと変わります。
退院後も毎日のガーゼ交換を行ってもらっていましたが、一向に膝上の傷口は塞がる様子がないのです。挙句、膝内部に設置された金具は塞がらない皮膚の間から見える始末(とてもグロテスクでした)。
ジュクジュクした状態が何週間も続きましたが、レントゲンで撮っても、CTで確認しても、その時は特に問題はなし。今思うと、その国の検査機器では判明し難いものだったのかもしれません。そういう点においても、医療先進国の日本の技術は、非常に進んでいるのだと思います。
どれだけ痛くとも、突き出た金具を押して延長しないことには治療が進みません。僕は痛みに耐えながら、それから帰国までの数ヵ月、毎日金具を押されていました。
緊急帰国
それから、相変わらず傷口は塞がる様子もなく、立つこともままならない日々が続きます。
そんなある日、銀行や病院へ行く際にも車椅子を押してもらっていた中で、僕は不思議と違和感を感じました。
それが一体何だったのか。確信めいた事は言えないのですが、東欧に来て早10か月が経とうというのに、突然のホームシックに陥ったのです。
「日本に帰りたい」という気持ちと、「日本に戻らなければ」という謎の直感でした。とても抽象的で申し訳ないのですが、僕はそう思えて仕方がなかったのです。
それからの僕の行動は、迅速だったと記憶しています。
帰る為の飛行機を予約し、医師にも早急に伝えました。「もう少し経ってからでもいいのではないか?」と優しく言う医師の言葉にも首を横に振り、「帰る」と言って譲りませんでした。
この時既に、自分の中で感染症が体を蝕んでいることなど知る由もありません。日本で治療を続行をしてくれる医師さえ決まっていないにも関わらず、無謀な行動だったとは思っています。
一方で、今となっては「この行動をしておいて正解だった」とも感じています。
なぜなら、それからすぐに世界各地で新型コロナウィルスの流行が始まるからです。
更に、内戦の状況も悪化していきました。これは大袈裟でもなく、あと少し行動が遅かったら僕は今頃どうなっていたかもわかりません。
ただし、帰国したからと言って安心できたわけではありませんでした。これはまだ、僕にとっても苦難の序章に過ぎなかったのです。