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ボクのLiving with HIV~4

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2024.3.27

定期的なHIV診療(血液検査)と心理カウンセリングを受けながら、ボクは投薬が始まるのを待ちました。しかしその間に徐々に体調は変化し、心理的にも大きな変化がありました。

ボクのLiving with HIV~1
ボクのLiving with HIV~2
ボクのLiving with HIV~3

執筆:勝水 健吾 Katsumizu Kengo

しばらくしてからボクは、頻繁に下痢を起こすようになりまた、常に疲労感を感じるような体調でした。仕事柄、日々、体力を使う仕事だったのですが、以前に比べると仕事が終わった後の疲労感はハンパありませんでした。それに加えて、食べても食べても、体重は徐々に減っていきました。

一度、定期受診の時に主治医に聞いたことがあります。ボクのこの症状は一般的なのか、と。先生からの答えは「よくあります」とのこと。下痢に関しては対症療法で下痢止めを処方していただきましたが、疲労感や体重の減少に関してはどうしようもありませんでした。

一方、保健所で陽性告知を受けた時に元カレと友人二人に開示してから、誰にもボクのHIVステータス(HIVに感染しているかいないかと言う事実)について開示することはなかったのですが、初診から半年後、当時の職場の後輩二人に開示しました(その職場は上司とボク、1つ年下と2つ年下の後輩の全部で4人だけの部署でした)。

なぜ後輩にボクのHIVステータスを開示したかと言うと「これから徐々に体調が悪くなることで、仕事に穴を開けることが多くなり、後輩たちに迷惑をかけてしまうかもしれない」と思ったからです。加えて、月に一回の午後半休は定期受診をしてるためと言うことも、付け加えて説明しました。

ちなみに上司に言わなかった理由は2つあり、1つ目に上司からさらに上の管理者へ報告があがる可能性があると思ったからということと、2つ目に上司の年齢が50代後半でHIV感染症のことをキチンと理解してもらえるかどうか分からなかったからです。

そして、心理カウンセリング。
ボクの心理カウンセリングを担当してくださったのはKさんという中年女性の臨床心理士さんでした。当時、心理職の地位というのは非常に低く、そもそも臨床心理士と言う資格も任意資格であるため、とてもめずらしい存在でした。

Kさんは長く拠点病院に所属されていて、HIV陽性者の心理カウンセリングを一手に引き受けてくださっており、また、セクシャリティなどの十分な知識と理解を持っていらっしゃる方でした(この方との出会いがあったからボクは心理職をしたいと思うようになった、そんな方です)。

「ボクのLiving with HIV~2」でお伝えした通り、ブロック拠点病院も平日昼間の診療のみ、ボクの仕事も平日昼間のみ。だけどKさんは、受診日以外のカウンセリング日は、診療時間外、しかもボクが仕事を終わってから公共交通機関を使って拠点病院に到着する19:00から1時間ほどの時間をわざわざ作っていただいて、心理カウンセリングをしていただきました。

最初の頃の心理カウンセリングでは、とにかくボクは自分を責め続けていたと思います。
HIVに感染したと思われる時期というのは、20代の大半を一緒に過ごしてきたパートナーと別れた比較的直後で、しかもパートナーと破局する原因を作ったのは、ボクの浮気でした。そして当時のボクは性活動がとても盛んで、多くの人と肉体的な関係を持っていました。そんな事実が重なり、ボクは「感染したのは自業自得」「自分の行いが悪かったから」そう自分を責め立てていました。

そしてボクが友人や元カレにHIV感染のことを開示し、皆が優しく受け入れてくれたのにも関わらず、ボクは自分自身が許せなかった。

そして両親への思い。
五体満足に生んでくれて、それまで両親は、ボクがやりたいと思ったことを好きなようにさせてくれていた。もちろん経済的に困ることもなく何不自由なく暮らしてこれたのも両親のおかげであるのに、ボクは一時の快楽に身を任せて自分の健康を害するような事をしてしまったことに対し、本当に自分が許せなかった。

そんな思いをKさんの前で、時に涙を流しながら話しをしました。

ボクはもう、幸せになってはいけない。
ボクは大きな十字架を背負っていかなければいけない。
そしてこの事実は誰にも言ってはいけない。絶対に。
そんな事を考えて、素直な気持ちをKさんに吐露していきました。

おそらく1年位は同じ様な話しをしていたような気がします。しかしKさんとの対話を通じて、徐々に「幸せに生きていってもいいのかな」「自分がやりたいと思ったことを今まで通りにやっていってもいいのかな」「今ボクが一番やりたいと思っていることはなんだろう」と、前向きに『生きる』事を考え始めました。

そして徐々にボクは「自分を許す」と言うことにたどり着いていきました。
このままの自分でもいいんじゃないか。
HIV陽性者である自分も、それも自分だよな。
もうこの事実は変えられないし、治癒しない病気になったんだから、いい加減自分を受け入れないと。
(このKさんとの心理カウンセリングの内容に関しては、ボクにとってとても重要なことなので、番外編として後日お伝えします)

その頃からでしょうか。徐々に日々の疲労感が強くなったり下痢が続いたりして、体力的に自信がなくなっていきました。そんなこともあり、ボクは「転職」を考えるようになりました。また、当時、住んでいた場所が地方都市であり、身体障害者手帳を申請しても、福祉サービスがあまり充実しておらず、転職とともに政令指定都市へ転居、というのも、具体性をもって考えるようになりました。

実はボクは当時、医療短大の頃の恩師の影響で「理学療法士を養成する学校の教員になりたい」と思っていました。そしてちょうどその頃、ボクの母校である医療技術短期大学部が四年制大学へ移行し「医学部保健学科理学療法学専攻」になり、保健学科の学部生が卒業すると同時に大学院も設立。そんな状況もあり、ボクは母校の大学院に入学したい、とも思っていました。それは〝理学療法士を養成する学校の教員になる〟ために必須であり『修士号』または『博士号』を取得することが、ボクのキャリア・アップのために必要なことでした。

そんなタイミングも重なり、Kさんの心理カウンセリングで少し前向きに生きることにボクの心が傾き始めました。

そしてボクの思いが具体性を持って動き出したのは、2004年になってからです。
まずは手始めに、仕事をしながら大学院の「科目等履修生」の制度を利用して、いくつかの大学院の科目を履修し単位を取得しながら、大学院の卒論を書くための基礎研究を、恩師の協力の下、始めました。

1975年岐阜県生まれ。長く理学療法士として医療機関に勤務。働きながら社会福祉士免許取得後、大学院修士課程を修了。リハビリテーション療法学修士。その後、産業カウンセラーの資格を取得。現在はフリーの心理カウンセラーとして活動中。セクシャルマイノリティ(ゲイ)であり身体障害者(免疫機能障害)であり精神障害者(双極性障害)である。

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