健常者。この言葉に、私は少し違和感を抱いています。
先天性全盲、バリバリの障害者。そんな自分だって健常者の1人といえるんじゃないか、と思えるからです。
「健常」とは何か。「障害」とは何か。「障害者」の反対語は本当に「健常者」でいいのか、またこの両者はどうして区別されなければならないのか。改めて考えます。
常に健やか?
キーボードをたたく指が「健常者」と動き出そうとするとき、私は一瞬ためらってしまいます。本当にこの言葉を使うべきなんだろうか、と。
障害者の世界ではよく耳にする言葉だし、ほかにちょうどいい言葉が見つからないなら迷わず使えばいい。ただ積極的に選ぼうとは思えない。意味に注目してみると、「私の言葉じゃないな」という気がするんです。
健常者。これは「障害者」に対して用いられる言葉ですが、「健常」とはどういうことでしょうか。
文字通り解釈するなら、「常に健やか」ということになります。
これでは疑問を感じませんか?「常に健やかな人なんている?」と。
そう、そんな人なんていないはず。どれほどエネルギッシュな人であっても、「今日は調子悪いな」「このところ疲れててやる気が出ないな」というときは必ずあるものです。
そこで、少し捉え方を広げてみます。「常に健やか」というのを、「基本的に毎日元気に過ごせるよ」くらいのニュアンスと解釈したらどうでしょうか。
そうすると、「健常」に当たる人は少なくないのではないかと思います。
これでも私は疑問を感じるんです。「全盲の私だって、健常といって全く問題ないんじゃない?」と。美味しいものをモリモリ食べてるし、仕事もバリバリ(とまでは言えないけど)こなしてるし、好きなアーティストのライブに行ってはっちゃけたりもするし。ね、健常でしょ?
私は障害者。これは紛れもない事実ですが、健常者でもあるといえるわけですね。
障害があることと健常でないことはイコールではないし、障害がないことと健常であることもイコールではない。ここ、重要なところです。
分けなくていい社会が理想だけど
では、健常者という言葉はなくしたほうがいいのか。そもそも「障害者」「健常者」などとどうして分けなければならないのでしょうか。
その答えを探るため、まず障害者とはどのような人たちを指すのか、確認してみましょう。
「身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下『障害』と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」
障害者基本法 第一章 第二条
障害者基本法ではそう定義されています。
目の見えない私も障害者です。確かに制限を受けていて、日々障害を感じています。
さて、その「障害」とはどのようなものでしょうか。
見えない状態で生活していると、やりたくてもできないことが多く出てきます。参加できない活動がある。選べない職業がある。これって障害ですよね。
それでも、昔に比べたら生きやすくなってきている。技術の進歩などにより、障害は軽くなっているのです。
障害を作り出したりなくしたりする要素は個人ばかりでなく、社会にもあるというわけですね。
逆に言えば、目が見えていて何でも自由にこなせる人であっても、視覚に頼れない環境に突然置かれれば障害者になるかもしれないということです。
こう考えると、「障害者」「健常者」などと線を引いて分けるのには無理があるのかもしれません。またそうしなくていいのが理想であると私は思います。線を引かなければ、差別も生まれにくくなるはずですよね。
ただそうはいっても、障害を簡単にゼロにできる社会の実現はまだ先のこと。今の段階で線を引くのをやめると、困難な状況に陥る人が続出するのも事実。
きちんと基準を設けて、制限を受けている人を「障害者」と認定し、サポートできる環境を作らなければならないのです。
そこで「健常者」「障害者」と区別することになるわけですが、両者の違いといえば、「その認定を受けているかいないか」だけ。
では、これを踏まえて「障害者」の反対として適切な言葉を考えるとどうでしょうか。
私としては、「非障害者」というシンプルな表現が一番しっくりくるように思えるのですが、いかがでしょうか?
立ち止まって、見直してみよう
ここまで私の意見を書いてきましたが、もちろんこれが正解というわけではありません。今すぐに新しい言葉に変える必要がある、などと言いたいわけでもありません。
ただ、少し立ち止まって、普段何気なく使っている言葉を見直してみるというのは意味のあることです。
「力がない」「何もできない」といったイメージを持たれることもある障害者だけど、健やかでないとは限らない。そのことは忘れずにいたい。
私は「健常者」という言葉からそんな思いを抱き、このコラムを書かせていただきました。
皆さんはどんなふうに感じますか?