生まれ持った障害で「できないことがある自分」を受け止めるには?
~完璧でないからこそ人は尊い…
1 1
2023.8.4
障害を持って生まれたり、後天性の障害を抱えたりすると、生きていく中で“できないこと”にぶち当たり、心が苦しくなる日がある。
そんな時はどう気持ちを切り替え、“できないことがある自分”を受け止めていけばいいのだろうか。
執筆:古川 諭香 Yuka Furukawa
体育の授業に参加できず「できないことが多い自分」に打ちのめされた
先天性心疾患を持つ私は小さい頃、運動を禁止されており、体育の時間はいつも見学だった。体育という授業は他の科目とは違って、人同士のコミュニケーションが生まれやすい。
日陰のアスファルトで座りながら、他の子と仲良くなったり、ワイワイと楽しそうに盛り上がったりしている友達を眺めている時間は苦痛。普段一緒にいる友達が、ひどくまぶしく、遠く感じられた。
でも、こんなみじめさも学生の頃だけだから…。そう言い聞かせて、なんとか心を静め、私は大人になっていった。
だが、大人になっても、いわゆる“普通”になれない自分はどこか周囲から浮いているという感覚が消えなかった。例えば、些細な気温差から体調を崩してしまう時や疲れやすくて、すぐにぐったりしてしまう時、周りの人との違いを感じ、自分の人生にある“できないことの多さ”に傷ついた。
体調やその日の気温などを加味して、自分を労わる対処法を常に考えなくてもいい人生が手に入らないことが苦しかった。
また、友人や恋人と出かけた時、私の歩くスピードが遅くて迷惑をかけてしまったり、あと2~3分で発車する電車に間に合うよう、一緒に駅の階段を走ることが体力的にできない自分も嫌だった。
体育の授業がなかったとしても、私は日常の些細な場面で「できないこと」に突然、遭遇し、そのたびに自己嫌悪。自分の体を、「役立たず」と思うようになっていった。
人の価値は「できることの多さ」では測れないことに気づいて…
そんな自己犠牲的な考え方が変わったのは、30代に入ってからだ。いくら願っても、頑張ってもできないことがあるのなら、それは仕方ないと諦めの境地に達した時、ふと思った。心臓の部屋が他の人よりも少ない自分が、健常な人と同じように何でもできたら、心臓の部屋が4つに分かれている意味がないから、それはそれで変な話なのかもしれないな、と。
これまで私は何でもできるようになりたいという思いしか持っていなかったけれど、できないことがある自分を受け入れることのほうが重要なのではないか、とも思った。
健常な人でも苦手なことや得意なことがあるように、自分にもできないこと、できることがあるだけ。できないことがあるのなら、できることや叶えられそうな小さな夢を謳歌していけば、自分の手で人生はいくらでも豊かにしていけるのかもしれない…。そう考えられるようになってから、少し生きづらさが和らいだのだ。
「できないことがあるのは、仕方がない」と納得できるまでには正直、時間もかかるし、苦しみも伴う。だが、完璧ではない自分を少し受け止められたら、今よりも生きやすい道が見つかる。
これは身体障害者だけでなく、精神疾患と向き合っている人にも言えることだと思う。物事を完璧にこなせず、たとえできないことが多くあったとしても、そこで人の価値は測れない。あなた自身の価値はもっと違うところにあって、そこに惹かれている人もいるのだから、どうか、そんなにも自分を責めないでほしい。
正直、私自身も「できないことがある自分」を完全に受け止められているかと聞かれたら、まだ少し怪しい部分がある。だが、できないことがあるからこそ、誰かの欠点を許せ、他の人の“できないこと”をサポートしたいと思える自分は嫌いではない。
不完全だからこそ、気づける痛みがあると学べたことは数多くの“できない”に泣いてきた私の財産だ。