発達障害の僕が「就労支援」の仕事を諦めなかった理由~1
本当にやりたい仕事は、ずっと前からあった
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2023.1.13
2020年8月8日。
世の中が東京オリンピックに熱狂していた。
そんな真夏の夜の出来事が、今に繋がるすべての始まりだったと思う。
僕はその夜、右足を骨折したことをキッカケに、以前からどうしてもやりたかった仕事に約1年後に転職することができた。
執筆:マーチン Martin
僕がずっとやりたかった仕事…それは発達障害当事者の就労支援に携わること。
当時、僕自身は障害者(発達障害でADHD強め)雇用で働いていた。
自分が当事者だったこと、そして興味があったこともあり、発達障害や障害者雇用を取り巻く情報に触れる機会が増えていた。そして、実際に発達障害当事者の就労先を訪ねる機会があり、そこで感じた違和感や問題点。
たとえば…
当事者も雇用先の部署や上司も試行錯誤が続いていること。
障害者雇用のキャリア形成や給与制度に柔軟性がないこと。
障害者雇用における地域格差のこと。
生きづらさ・働きづらさで苦しんでいる発達障害当事者の存在がまだまだ氷山の一角であること。
様々な問題が山積している現状を知り、いても立ってもいられなくなり、実際に就労支援の世界へ飛び込んでみたくなったのだ。
…でも、威勢良く飛び込もうとするも、自分には福祉の資格も無ければ、福祉での職歴なんてものは一切ない。
それどころか、現職でも、これといった実績は残せてない。
正直、「就労支援をやりたい」という話をすると、周りからは「人のことよりも自分のことを頑張りなよ」とも言われたことだってある。
でも、諦めなかった。
というか、諦めたくなかった。
「思い立ったが吉日!」とすぐに行動に移す衝動性に加えて、「止めろ」と言われると反発したくなるあまのじゃく気質な僕は、素直に「はい、そうですか」で諦めるようなことはしなかった。
しかし、現実問題、幼い子供が2人もいるのに、仕事を辞めて大学や専門学校に行って福祉系の資格取得を目指すほどの時間や経済面で余裕が自分には全くない。
ならばと、知恵を絞って少しでも自分がやりたかった就労支援への道に繋がりそうなこと、経験値が積めそうなことは果敢にチャレンジしていった。
半ば飛び込み営業のように気になるところへメッセージを送った(もちろん連絡をして返信が返ってくるのは10件に1件レベル)。
それでも諦めずに攻め続けた結果、発達障害支援を行っている学校関係者と知り合えたり、就労移行支援事業所のとある代表の方とも繋がりを持ち、話を聞いてアドバイスを貰ったりするレベルまでにはどうにか前進することができた。
発達障害の当事者会「発達ワークスぎふ」の創設もその一つだ。発達障害当事者の地元コミュニティを作りたい!という熱い想いのもと4年前に始めた。
他にも様々な発達障害イベントへの参加や当事者会、ブログなど家事育児の合間を見つけては色々やってみた。
そんな暗中模索でのチャレンジだったので、一進一退な動きが2年ほど続いていた。
それが自分の右足骨折をきっかけに、事態が急加速を遂げることとなるとは思いもしなかった。
話を2020年8月8日夜に戻す。
その日は東京オリンピックの注目競技のひとつである、男子野球決勝のアメリカ戦が行われていた。
横浜スタジアムで行われたその試合は、開催国としてのプレッシャーを背負いながらも見事に日本が勝利。日本の野球競技の歴史にまた新たな栄冠をもたらした。
小学生時代からの野球好きの僕は、もちろんその瞬間を目に焼き付けて喜んでいた。
…と同時に、右足に今まで感じた事のない激痛を受けて悶えながらテレビを見ていた。
涙は頬を流れてるが、明らかに嬉し涙じゃない。あまりの痛みで出てきた涙の比率がとても大きかった。
何でまたそんな事が起きたのか?
それは日本対アメリカの熱戦の裏側で、キッチンで行われた自分対「黒光りのアイツ」との激闘が原因だった。
つづく
Text by
Martin
マーチン
1989年生まれの33歳、生粋の岐阜県民。社会人2年目の時に発達障害(ADHD/ASD)と診断され、障害者雇用にて再就職。8年間勤務後、障害者の就労支援職に従事している。2019年に居場所作りや情報共有の場として岐阜市にて発達障害当事者会「発達ワークスぎふ」を立ち上げ、私生活では二児の父として、色々しくじりながらも奮闘中!!