自己肯定感の低い私が苦しかったときに「救い」となった人との関わり
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2023.2.28
私は、22歳のときにてんかん障害と診断されました。大変な状況にあるときに、自己肯定感の低い私は何かと後ろ向きになりがちです。そんな私にとって「救い」となった人との関わりや、思い出についてです。
執筆:小泉 将史
私は、22歳のときにてんかん障害と診断されました。てんかん障害が部分寛解した後、二次障害の精神症状に悩まされながら、なんとか仕事をして、ここまで生活を送ってきました。
大変な状況にあるときに、自己肯定感の低い私は何かと後ろ向きになりがちです。
そんな私にとって「救い」となった人との関わりや、思い出についてです。
障害を診断された日 ~「てんかん」障害者の始まり~
高校卒業後、22歳の時に「てんかん」と診断された日、「ああ、これでまともに働く事も出来ない人生になってしまった」と思いました。周りの友人達は高校や専門学校を卒業して一生懸命働いているというのに。
てんかん障害とは、突然意識を失って反応が無くなるなどの「てんかん発作」を繰り返す病気のことです。てんかん発作は一時的なもので、発作が終わると元通りの状態に回復します。
てんかん発作はいつやって来るのかわかりません。私は歯痒さを感じながら日々、思うように制御出来ない自分の身体の不調と向き合わなければならない日々が続きました。
その時に私が救われたのは医師からの励ましの言葉でした。
「時間の経過とともにいずれ寛解というんですが、よくなるでしょうから、あまり気を落とさないで。」
その励ましが悲観的だった私の心理を楽観視する材料になりました。今振り返ってみれば、非常に呑気な奴だと言われるかもしれませんが、「寛解したらしっかり働けばいいや」と気持ちを切り替えられました。
悲観的なまま思い詰めてしまったら、精神状態が不安定になっていたかもしれません。二次障害とも呼べるてんかん性精神病の陽性症状を悪化させずにすんでよかったと思っています。
可哀想な私、これからどうする? ~母の他界、後ろ盾のない生活の始まり~
苦しかったときに救いになったのは、医師からの言葉だけではありませんでした。本もまた、私の心を軽くしてくれました。
30代に入り、てんかんの意識消失発作は完治とまでは呼べないものの、部分寛解はしてきていました。ようやく発作に悩まされることが少なくなってきたと思いきや、その頃から二次障害とも呼べるてんかん性精神病の陽性症状(幻覚・シュナイダーの一級症状)が出てきて、私を苦しめていました。
決して精神的に良好な状態とは呼べませんでしたが、私は自活せざるを得ない状況になりました。母が他界してしまったのです。父は私が高校生の頃に他界しているため、私にとっては両親の後ろ盾のない生活が始まったのです。
障害者が自活をするのは大変なことです。それでも、私は一念発起して公共職業訓練校に通い「働くしかない」と覚悟を決めました。
そのような中、社会心理学者アドラーについて書かれた著書『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』という本を読みました。
特に印象に残ったのは「可哀想な私、これからどうする?」という一文です。「可哀想な私」という言葉を読んだときに、自分の心を見透かされているような気持ちになりました。
私は自己肯定感に乏しく、自己憐憫の傾向が強いようです。この読書体験は、障害者として歩んできた自分のこれまでの気持ちを整理するきっかけになったように思います。精神症状に悩まされてきた私にとっては大変な道のりでしたが、現在は概ね安定して就労することができています。
結果的に、アドラーの刺激を受けたことが私の「救い」となっているように思います。
また、20代の頃は山本周五郎著書『泣き言は言わない』を読みました。本を読むたびに、見えない力に励まされながら、ここまで生活して来られたように思います。
終わりに
他に「救われた瞬間」と聞いて思い出すのが甥っ子との関わりです。私は、甥っ子の一人が小学校6年生の時に習字で書いた「心に太陽」という言葉を見習うために、今でも部屋に飾っています。
そしてもう一人の甥っ子は私の誕生日にLINEでお祝いのメッセージをくれました。独身の私には誕生日を祝ってくれる人などいないと思っていたので、連絡をくれたこと自体に驚きました。涙が出るほど嬉しかったです。
振り返ってみると、後ろ向きだった人生に「救い」を与えてくれたのは「年齢・性別問わず、人との楽しい関わり」だったように思います。これからもこのような瞬間がある事を願ってやみません。