私が「自然体の幸せ」を手に入れた話
~聴覚・精神障害当事者の私らしい生き方
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2022.5.20
今回は、親は「我が子の幸せ」があれば勝手に幸せになるからつながるコラムである。
「自然体の幸せ」とは何かと言ったら、「無理しないで自分らしくいられる幸せ」を指していると私は思っている。
しかし、現代はどうしてそれが厳しい世の中なのだろうという疑問を私は発信したい。
執筆:中川 夜 Yoru Nakagawa
障害があるから障害者なのである。それなのに、「健常者」に合わせてほしいと抑圧を受けると、精神障害を発症することになりうる。
それが私という一例である。
私は重複障害である。聴覚と精神(統合失調症)障害を持っている。
重複障害になる過程までいろいろあった。
障害がある人間としては、険しい人生を何とか乗り越えて来たと思う。
聴覚障害の私と、聴こえる両親
生きていく上で、親子関係は避けて通れぬ課題だと私は思う。SNSを少し眺めるだけでも、親ガチャ、毒親、ネグレクト、DVなど、親子関係にまつわる暗い話題が目に飛び込んでくることも珍しくない。
それに比べて、私の両親は良心的な親であったと思う。なぜなら、快適な衣食住を保障してくれてはいたからだ。
そのことには感謝しているが、私と両親は幸せな親子関係とは言えなかった。
理由は、自分の聴覚障害の辛さをわかってもらえなかったからだ。私は両親から遠巻きにされているような感覚をいつも持っていた。親は親で、「どうしたらいいかわからない」であったと思う。
聴覚障害とは「耳が聴こえない」人のことである。
聴力レベルによって、障害の軽い、重いが分けられる。聴力のレベルによって音声から「言葉」として理解するのが厳しくなる。
私は中度〜重度難聴であった。つまり、半分以上の音を聴き取って理解するのが難しい聴力レベルであった。
私の父母は聴(こえる)者であるため、私は必然的に聴者のコミュニケーションに合わせて発声訓練を受けた。しかし、聴力は年々下がっていって、中学生の時に完全に失聴した。
私は自分の障害状況がわからず、聴こえなくても声を出して喋っていた。喋ることで、コミュニケーションをとろうとしたのだが、聴くことだけは障害上できなかった。
私はコミュニケーションが誰とも築けないと、孤立感を募らせて行った。どこのコミュニティにも馴染めず、20代半ばで精神障害も発症した。
両親は「聴覚障害や精神障害を持つ私」に対して「どうしたらいいかわからない」と、いった態度だった。そのために、私は両親に対して恨みや複雑な感情を長い間、持っていた。
恩人に出会ったら、人生が変わった
ことのきっかけは、私が精神障害を患ったあとの話だ。社会復帰をしてまず、ある会社で働いたことから始まる。
聴覚障害と精神障害持ちである私を雇おうとしてくれる会社は、ほぼなかった。
唯一、雇ってくれたその会社では、感謝の気持ちで働いたのだが、精神に無理が来てしまった。
途中から、会社に行こうとすると身体が不調をうったえたり、突然、涙が出て止まらなかったりしてしまったのだ。
会社を辞めたいという意思を両親に伝えると、「無理をしてでも頑張りなさい」と言われた。
この時、私は「このまま親の期待に応え続けたら死ぬ」と直感的に思った。
そこで、必死に自力で他の職場を探した。幸いなことに、10年も会ってなかった高校の同級生が仕事先を紹介してくれた。
そこで知り合った恩人との出会いで、私の人生は好転した。
なぜなら、恩人との出会いから、「私はろう者(※1)に生まれて心から良かった」と少しずつ、両親に感謝できるようになったからだ。
恩人は、今まで出会ったことがないタイプの人で、私を一人の「ろう者」として尊重し、接してくれた。
また恩人は、手話の使い手であった。
基本的に恩人との会話は、手話で通じた。そのために、恩人とのコミュニケーションに「わからない」ということは一切なかった。
恩人と呼ぶ理由は「手話で話す私」を認めてくれたから
私が恩人のことを、恩人と呼ぶ理由がある。
恩人だけが、はじめて私のことを「手話で話すろう者」と認めてくれたからだ。
出会ってすぐの頃は、恩人に対して、「私が喋った方が助かるのだろうな」と思い、声を出して話していた。すると、あるとき、「無理をしてない?」と遠回しに言われた。
今までは、手話ができる人であっても、私が喋れることがわかると「喋った方がいいよ」と無邪気に言われることが多かった。親からも声を出して喋るのがいいと言われたから、「これが正しいのだ」と思っていた。
しかし、恩人は、一度も「声で話してほしい」とは言わなかった。「手話がいい」と言って、専ら手話で話した。
私は恩人と出会って、手話で話す機会が増え、手話を通して誰かと気持ちを分かち合える体験が多くなった。
そして私は、「自然体でいられる自分」を発見できた。私が思う「自然体でいられる」ということは、「無理をしていない」ことでもある。
聴者と同じコミュニケーション方法を求められるのはなぜ?
私は最近、社会に対して違和感を感じるようになった。
なぜ、いつまで経っても聴覚障害者に対して聴きづらい音を聴く努力をさせるのか? また口話(口の形から話の内容を予測する方法)で理解することを求めるのか?
私は、音声が聴きづらい、聴こえないから聴覚障害者なのである。
それなのに、世の中の多くの人たちが「音声の会話で理解してほしい」と無自覚的に、無茶を言う現状を不思議に思っている。
そんな社会に流されて、かつて私は、聴こえないのに、聴こえるふりをしてきたこともある。しかし、そんなことをしても、意思の疎通はできなかった。
それならばと、筆談を求めると、聴者は困った顔をする。筆談だと声を出して話すより時間も手間もかかるからだろうか。
そこで「手話」だ。
手話であれば、音声で会話と同じ速度でかわすことができる。
「手話」とは聴覚障害者のなかで「ろう者」といわれる人たちが作り上げた「見る言語」であり、ろう者が独自の文化のもとで生み出したコミュニケーション方法だ。
私は、社会のマジョリティである健常者に、手話に対しての理解がもっと深まればいいなと思う。しかし、相変わらず、手話は聴覚障害者の「音声補助の手段」と見られている。
そもそも人類が、今日まで生活、文化、技術の発展を成し遂げられたのは、コミュニケーションを通しての成果の結集だ。そして、人間は、人とコミュニケーションなしでは生きていけない社会的な動物でもある。
私は誰ともコミュニケーションが築けなかったために、統合失調症を発症したのだと思う。
音声が聴き取れない聴覚障害者にとって、音声を聴けないことで起きる、コミュニケーションがとれないことで起こる障壁は、思いのほか大きい。
その後、私は恩人に出会ったことで、「手話を言語とするろう者」という生き方があると教えられた。手話を言語にすることで、「自分にとって無理のないコミュニケーション方法」がわかった。
しかし、相変わらず社会では、私たち聴覚障害者に音声で喋ることを求められる。また、聴こえずとも口の動きを読んで理解してほしいと言われる。
そんな社会に対して、まずは、
「私(中川夜)は手話で話すことが自然である」
ということを多くの人に認識してもらえるように、引き続き、コラムを書いていきたい。
※1ろう者…①一般的に補聴器等をつけても音声が判別できない人、幼少期に失聴した人。
②手話を母語もしくは主なコミュニケーション手段とする人のこと。
このコラム内では②を指す。
(参照:東京都聴覚障害者連盟)