ダウン症の妹ときょうだい児の私~2
1
1
2022.8.15
前回のコラムでは、私にダウン症の妹がいることをお話しました。
彼女のおだやかさや人柄の良さ、けれども後回しにされていると感じていた幼少期のことを中心に書きましたが…何度もこちらのサイトでも書かせてもらっている通り、私には他に“父親からの虐待”という現実もありました。
私のすること全てに意味がないと言うモラハラから、無視、時たま暴力もありなんとも辛い子ども時代でしたが、その父親はなぜかいつも私に「妹を大事にしろ」と言っていました。
執筆:和泉屋(いずみや) izumiya
もちろん私は、妹を大事にしていなかったわけではありません。
当時も今も、私は妹がダウン症で恥ずかしいと思ったこともなく、自分の中ではフラットに姉妹として接しているつもりです。
とはいえ、体調を崩しがちな妹の看病の手伝いなどはしていたし、毎日よく一緒に遊んだりもしました。
応接間にあったソファのカバーをお互いの体に巻き、「お姫様ごっこ」をするのは本当に楽しかったです。
それなのに父親からは「妹を大事にしろ」、と言われる日々。
何か釈然とせず、ある日言い返してしまいました。
「私は、妹は妹だと思っているから、障害があるかどうかは姉妹間では関係ない。だから嫌なことをされたら腹が立つし、遊びたくない時は遊ばないし、障害があるからってずっと優しくできない」とはっきりと言ってみました。
その結果、父から言われた言葉は、「お前は差別主義者だ」というもの。
障害がある妹に優しくできず、自分が腹を立てればそのことで怒り出す私は差別主義者だと責め立てられました。
でも、障害者であることは理解していても、その前に妹は妹というのは私の中では揺るぎない事実。
「それってそんなにいけないことか?」
と本当に納得できませんでしたが、自分に害が及ぶのが怖くて、それ以来はこのことには触れないことにしました。
この出来事が小学校中学年くらいの時。
それからは妹のめんどうは見るものの、ちょっとだけ気持ち的に距離をとりながら父親からの攻撃に耐え、なるべく家では静かに過ごしていくように心がけます。
いるのかいないのかわからないような、存在感を消して誰からも干渉されないことを目指して。
その頃、母親は簡単なパートに出るようになりました。
家で妹と過ごす時間は長くなったけれど、やはりちょっとだけ距離をとり、積極的に遊ぶようなことはなくなった気がします。
そして私が中学生になる頃には、父親からの虐待がより一層ひどくなり、妹との関係というよりも自分の身を守るのに精一杯の日々になっていきます。
突然パニック発作を起こす私に母親は仰天し、家庭内で父親と会わないよう家庭内別居のような生活をしながら、事は両親の離婚へと進んでいきます。
離婚をするって、本当に大変なんだな…と寝込んでいる間も、子どもながらに感じていました。
祖父母の助けもあり、なんとか離婚の前に別居するためアパートへ母子3人で移り住んだ頃、私は高校生になりました。
それからは寝込んでいるわけにもいかず、正社員になった母のフォローをしながらバイトもして、妹のめんどうも見ながらの生活です。
それでも、虐待されるよりは数倍マシ!
怒られないように身を潜めなくていいという生活って、こんなに楽なんだ…と思う一方、養護学校(当時の名称)に進学した妹のめんどうを見るのは、けっこう大変でした。
登校や下校は1人でできるものの、当時スイミングの習い事をしていた妹のお迎えや、夕飯の簡単な支度など。
母と私は働きながらも、妹に不自由させないようにするにはどうすればいいか?を、2人で模索しながらなんとか生活していきます。
妹は手がかからない方だと思います。
それでもやはり知的障害がある以上、普通の中学生と同じように生活できるわけではなかったんです。
母がいない時の咄嗟の判断などは、私に委ねられます。
それが重荷だったかどうかは、当時は無我夢中だったので今となってはよくわかりません。
ただ、妹に障害がある。
私自身もパニック発作や鬱がある。
そんな娘2人を養いながら、母自身も正社員として働く。
かなりアンバランスな中、母子3人で必死に暮らしていた頃でした。
ちょうどその頃、離婚の調停もあり、私も家庭裁判所に出廷したりと毎日がバタバタ。
家庭裁判所で父親と1年ぶりくらいに顔を合わせた時、何も言わずに無視されたのはなんだか情けなくて笑ってしまいました。
毎日怒涛のように過ぎていった母子3人暮らしですが、妹のことについていろんな課題が見えてきて、それを解消するために衝突することもありました。
その詳しい内容は、次回お話したいと思います。
つづく