『毒キノコ』〜虐待を乗り越えて思うこと〜
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2024.2.21
虐待と言っても、その中身は本当に様々です。
私自身は、自分が受けたものが虐待だったと気づき知ることとなったのは、第一子を出産してからでした。
治療の過程では境界性パーソナリティ障害とも診断されました。そんな私は、虐待を乗り越えるために様々な道を選択しました。
今回は、虐待の傷を乗り越えた今の私が感じることをお話ししたいと思います。
(捉え方や向き合い方などは本当に人それぞれです。あくまでも一個人の経験としてお読み頂けたら幸いです)
執筆:愛
題名『毒キノコ』
『毒キノコって本当に元から毒キノコだったのでしょうか…?
実はその毒キノコも、本当は毒を食べさせられたのではないでしょうか…?
だって…私も食べさせられたから分かるんです。
そして…毒キノコは本当に毒キノコになりたかったのでしょうか…?』
ー 【絵の解説】
毒親と毒キノコを掛けています。
実際私は毒親という単語をほとんど使ったことがありません。
『毒』という言葉を使うことには抵抗がありましたが、今回は敢えて描いてみました。
この絵はカウンセリングの最中に浮かんだものです。
立ち込める暗雲
私が受けたものが虐待だったと気づくのが遅かったのには理由があります。
全て私が悪い子だから受けていたし、それがなければきっと私はもっとわがままで悪い子になっていた…ということを信じていたからです。
そして、どこかで親を否定する怖さや痛みもありました。
出産して子供を育てていくうちに『あれ…本当は…』と気づきながらも、
まだまだ抑圧された蓋は開けられないまま日々が流れました。
私は若くしての出産で、周りからの『悪いことしたら叩かなきゃダメだよ』という指導や、当時頻繁にテレビで取り上げられていた育児のプロのような方も、段階を踏んで最終的には叩くことをお話しされていたので、やっぱり私が受けていたものも正しくて、その様に育てるのが良いことだし、子育ての先輩方が言うように『パチン!』としてあげるのも子育てには必要なのだと当時は純粋に思いました。
時代的にも叩く躾がまだ当たり前のような時代でもあったので、そういった背景もプラスされていましたし、どこか心の中に湧き起こる違和感を打ち消す材料にもなっていました。
でも、なにかがおかしいのです。
これは言い訳になりますが、まだまだ障害を学び始めの私にとって躾と障害のラインは本当にとても難しかったり、更に強度行動障害もあった子供を止めるには、どうしても力づくになってしまったり、痛みでその場を止めるしかない時もあったりしました。
ですが、そうしていくうちに、私と子供の関係性は良くなるどころかどんどん悪化していくばかり……
私の痛む手と心と、目の前の子供の悲しい表情がどうしても上記の正しいと思われたことにいつまで経ってもイコールにならないのです…
『これって本当に正しいの…?やっぱり違うんじゃないか…?』
そうして疑問を抱き始め、私がその後に選んだ道は、治療やカウンセリングに加えて、受けてきたことや現状を理解するための病院の教育プログラムと、児童相談所が行っていた回復プログラムを受けることでした。
回復プログラムではまず、
『“自分が悪い子だから“とか“受けて良かったのだ“というのは、虐待を受けていた子が陥りやすい心理です』
という言葉があり、それによってそれまで信じていた世界が崩れ、崖から突き落とされたような感覚を抱きました。
それでもまだ、私が受けてきたものが虐待で、今正に連鎖していきそうになっているという現実も認めたくなくて、葛藤に満ちた心を抱きながら、本格的に目の前のこと🟰自分自身と向き合わなければならないのだという現実に、その大きすぎる怪物に言葉を失いました。
決意
私がプログラムを受けたのには理由があります。
私の家庭を振り返ると、私だけではなく、親やそのまた親も虐待や悲しみの連鎖が続いてきているという事実に気がつきました。
虐待は連鎖しやすいという背景がある現実を知っているからこそ、悲しみや痛みを知っているからこそ、この連鎖を私の子ども達、さらに先に繋げては絶対にダメだと思いました。
『我が家に続いてきた虐待(悲しみ)の連鎖を、何としても私で止める』
その決意のもと、家族の再構築を目指しました。
プログラムでは、見たくないものも見なければいけないところから始まり、一言では言い表せないほどの痛みと苦しみに満ちた日々でしたが、怒りきる、恨みきる、憎みきることも私の回復には大切でした。
子供たちに関しても、私と同じものをすでに作り始めてしまっていることをしっかりと受け止めて、必要なセラピーや治療を行ってきました。
大人になって取り組むよりも、子供のうちに取り組む事が大切でした。
私自身は学んでいく中で、理解や認知が変わり、
①私のそれまでのやり方が間違っていたこと。
②勉強や治療を続けてきて分かったこと。
③それまで傷つけてしまって『ごめんなさい』
を、子供たちにもしっかりお話ししました。
回復後は、何か子供が問題を起こした時なども、子供の気持ちと私の気持ちとを対話でのやり取りができるようになりました。
たくさんの支援の方々の支えもあり、現在は連鎖は断ち切り、今は心も穏やかで子供達とも日々笑い合えるようになりました。
今思うこと
私が苦しめられた大人は両親と祖母と叔母の4人ですが、父のことは他の3人よりもずっとずっと前に乗り越えていて、現在は関係も良好ですし、今ではお父さんが大好きです。
昔は『親が大好き!』などと言っている人を見ると、虫酸が走り拒絶反応しかなかったので、まさか自分がそんな想いを抱けるとは思いませんでした。
問題は、母、祖母、叔母です。
現在、3人ともすでに他界していますが、その3人のことも前コラムで書いたように、昨年までに乗り越えることができました。
そしてその3人は、最初にご紹介した絵の『毒キノコ』のイメージです。
プログラムやカウンセリングを通して、人というものを学んでいくうちに、少しずつ自分の傷とは分けて大人たちの傷を見ていくことも続けてきました。
確かに私に対してしてきたことは、酷いことでした。
でも、大人1人1人の人生を辿っていくと、実際に見えて来るものは悲しみしかありませんでした。
例えば、私の母の場合…
母の母は4回も変わっています。
その中で虐待をする人もいました。
貧困もありました。
学校ではいじめも受けました。
どこにも居場所が無く、15、6歳で家出をして、ただただ温かい家庭を求めて父と出会い結婚、私を産みました。
幸せになれるかと思ったら、お姑さん(祖母)からのいじめがあったり、父との関係性も悪くなっていくばかり…
若いからしつけがなっていないという周りの目やプレッシャーの中、貧困もありました。
頼る人もほとんどいなかったですし、私を望んでいなかった祖母は2人目以降もなんとかおろさせようとしたり、終わらないいじめのストレスで、母は2人流産しています。私の弟のことは、必死に妊娠を隠し通して産みました。
母が当時の状況であったり、それまでに抱えてきたものを乗り越えられないまま私を育てるということがどんな状態だったのかというのは、似たような経験をした私が一番分かります。
だからと言って、虐待を正当化するわけではありません。
私は苦しかったし痛かったし、その後の人生にも長く影響し続けてきました。
幼い頃、母の温もりや暖かさを感じたことも正直ありません。
4人からの虐待はほぼ全部を私が受けていましたし、ずっと独りで耐えてきました。
それでも今になってやっと、『あぁ、あれは母なりの愛だったんだな…』と思えるようになったものがありました。
なのでもしかしたら母は、本当はその愛で生きたかったのではないか…と思ったりするのです。
でもそれができないほどの悲しみや苦しみを抱えていたのだろうと…
それは、別の悲しみを抱えていた祖母や伯母も同じなのではないかと…。
だからこそ、痛みや悲しみなどを毒と例えるならば、それを食べてしまうと時に人は、元々持っていた愛や生きたい愛で生きられないこともあるのかもしれない…と思ったりするのです。
それが人間という弱さでもあって…。
(例えてはいますが、痛みや苦しみが全て悪いものだという風には思っていません)
伯母に関しては私と同じ病気で自死しています。
苦しみの中で亡くなったということはどんなに悲しかっただろうか…
そんな風に今は思ったりします。
だったら、まず治療したら良いとか、辞める努力をしなよという風に考えたりするかもしれませんが、その道は決して楽ではありませんでしたし、人間の心はそんなに簡単でもありません。
私に関して言えば、私で連鎖を止められたので、それで良いのだと思っています。
確かに辛かったことですが、それを受けたらこんなに心が壊れてしまうということを私は知ることができましたし、
知ることができたことによって何より大切なのは、次の子ども達に引き継がないことだと気付けたからです。
その大切なことを守れて乗り越えられた今、もう傷や痛みに囚われない生き方を今後はしていきたいと思っています。
過去ではなく、今を生きて、未来を見たいと思っています。
『毒キノコ』の姿だけではなく、母達が本当になりたかった姿や本当の愛を見つけたいという気持ちも生まれてきました。
そして私自身も同じです。
私もたらふく毒を食べさせられたので…
私って本当はどんな人なんだろう?
どんな愛を持っているのだろう?
見つけた愛で生きられる強さをこれからは持って生きたいです。