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PTSD と闘い人生を取り戻すお話~2~治療のこと

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2023.8.23

性犯罪被害に遭ってから20年以上。
被害後、生活の中にはいくつもの制限が発生し、後遺症も残り、自分が自分でなくなっていきました。
病状は次第に悪化していき、まるで人生を奪われたよう…
でも、ある時からその現実と闘う決意をします。
PTSD(併発の複数障害)と闘い、自分の人生を取り戻していくお話。
今回は治療についてお話したいと思います。

>>PTSD と闘い人生を取り戻すお話~1~あの日こと


執筆:愛

***編集部より***
※注意※
フラッシュバック症状がある方は、無理をして読まないようご注意ください。
このコラムは、あくまでもライター個人の経験に基づくお話です。

精神障害の治療法は、個人や症状によって違います。専門の医師の指導の下、行うようにしてください。
ライターが実践した曝露法は、主治医、担当の心理士と相談しながら進めています。
****************

当事者の私の気持ち

性犯罪被害に遭ってから20年以上。
私だけでなく、家族や周りの人たちも傷ついていました。

ただ…私は当事者なので、当事者の気持ちを綴らせてもらうと…

犯人への怒りや恨みは、何年も無い…というよりもずっと見えないような感じでした。

本当に心が真っ暗で、真っ暗で…心が感じるのを拒否していたのかもしれません。

たとえもし極刑にできたとしても、それを望む気持ちすらなかったと思います。

刑罰よりも私が何より望んだ一番の願いは、

『元の私に戻して』

それしかなかったからです。

元の私に、元気だった頃の私に…ただただ、戻してほしい。

それが唯一の願いでした。

でも、そんなのは無理な話で、今の私に辿り着くまでに、何度も繰り返した「死にたい」という思い。

その思いは子供が生まれてからも変わりませんでした。

子供がストッパーになる時と、逆に一歩踏み出してしまう時と。

母親はいた方がいい、でも、廃人状態の母親だったら、いっそいない方がいいのではないか。どちらの方が子供にとって幸せなのかが分からなくなったりしました。

でも、「死にたい」という思いに反して留まろうとする理由の中に、子供以外にもう1人の存在がありました。

それは、私と同じ犯人に傷つけられ、命を絶った被害者です。

もし、私が死んでしまったら、苦しい思いをして悲しみの中で命を絶ったその人の命のことを覚えている人が1人減ってしまう…

それは、その命をもう一度亡くしてしまうように私は感じ、「覚えている人を減らしたらダメだ」と思うことで、ある意味その方に生かされたというような感覚もありました。

事件から16年、抑圧してきた怒りが噴き出した

事件から5年、あの日のことを閉じ込めていた心の蓋が開いてしまった後、ようやく精神科へ行き治療が始まりました。

少しずつカウンセリングも受けるようになり、自らも心理学を学ぶようになりました。

うつから双極性障害に変わった私の波は、一年を通して何度か上がり下がりが見られました。毎年、事件に遭った月から気持ちが下がり始めるのは例年の決まりごとのようでした。

救いを求めて犯罪被害者支援センターにも行きました。

そこで言われた、
『あなたは何も悪くない。加害者が100%悪いです』
という言葉。

その時は少しも受け入れることが出来ませんでした。

虐待でもよく起こり、実際にも抱いたことですが、受けた側の方が自分が悪いのだという思いを抱きやすいのに似ているのかもしれません。

さらに性犯罪となると、受けた側を責める風潮が世間には少なからずあるので、そういったことも大きく影響していました。

病院は自分に合うところを求めて、これまで7ヶ所ほど転院しました。カウンセリングも合う方を求めて転々と。

服薬やカウンセリング、加えて心理学や加害心理の勉強も続けてきましたが、ある一定までの回復は見られるものの、なかなか大きな山が越えられず、治療に限界を感じ始めていました。

そうこうしているうちに、全ての限界が来て緊急入院になった時、私にとって大きな転機がやってきました(以前のコラムでお話しました)。

加えて、これまで抑圧してきた怒りがその時やっと噴き出しました。

実は怒りはチャンスで、時に人生を切り開くものになります。

事件から16年。私はその怒りを活用することにしました。

独自の「曝露法」で治療を試みる

精神科の治療法の1つに曝露法(エクスポージャー療法)という治療法があります。主に不安症やPTSD、強迫症に用いられ、不安の原因になる刺激に段階的に触れることで、不安を消していく方法です。私はこれをやってみようと思いました。

以前通っていた精神科の先生からは、私のようなタイプは曝露法に向かない、もっと悪化する、と診断されていましたが、このままではこれ以上良くなることはないと感じたため、自分の直感を信じて独自に曝露法で訓練していくことを決めました。

まずはずっと避けていた不安要素に飛び込むところから。

私のPTSDから来る発作は、突然出る時もあれば、出ると自分で分かる時がありました。

分かる時の例としては、自分と同じような被害者の話を見たり聞いたり、不特定多数の人がいる場所や自分の肌で怖いと感じる人たちがいる場所、逃げ場がないところなどは特に発作が出やすかったです。

事件後、ずっとそういった状況を避け続けてきたのですが、あえてそこに飛び込むことを決めました。

では、その怖くて不安になる場所や状況の中で、訓練で飛び込める場所ってどこだろう?

不特定多数や怖いと感じる人がたくさんいて、逃げ出すことはできるけれどすぐには逃げ出せなくて、パニック発作が出やすい場所と言えば…

1番近いところが電車でした。

電車は扉が開くまでは強制的にその場に居なくてはならないので、その場に留まる訓練ができます。

扉が開けば出られる(逃げられる)ので、頑張る時間と逃げやすさがちょうど良い場所に思え、まずは電車に乗るところから訓練を始めることにしました。

ただ頑張るだけではしんどくなってしまうので、目的地に自分にとって最大のご褒美を置くことにしました。たとえば、自分の好きなお店に行く、イベント、憧れの人に会う…など。

そのご褒美を目標に電車に乗る。“最大のご褒美”というのがポイントです。

初めはパニック、過呼吸、恐怖、吐き気、震えなどとの闘いでした。

動けなくなったり、途中で降りることが続きました。
無理かもしれないと思いつつもそれでも諦めず回数を重ねていくと段々と、

『乗れる時間帯』
『居られる場所』
『居られる時間』

それが自分でも少しずつ分かるようになり、不安・恐怖だけの塊から、”ここなら大丈夫かもしれない“というものが、“経験”として獲得していけるようになりました。

現在もその3つのポイントで訓練を続けています。

時々、満員電車にもチャレンジしていますが、とても負担が大きいので、焦らず、無理せず、訓練をしています。

次のステップは、苦手な人との関わりを克服すること

ある程度、電車での訓練を積んで、パニックの回数が以前より減ってきたところで次の段階へ。

苦手な人(男性)たちが集まるコミュニティへの参加を決めました。これももちろん逃げ場所の確保ができるコミュニティです。そのコミュニティに加わり、人と男性に慣れる訓練。

最初は、電車の時と同じように、過呼吸や恐怖、吐き気などとの闘いが始まりました。でも、これしか道はないと思っていたので、諦めませんでした。

男性と関わっていく中で、段々と、悪い人だけじゃなくて良い人もいる『事実』をちゃんと知り、受け入れていきました。

そうしていくと、日頃の警戒心も本当に少しずつ緩めることができるようになり、そこで事件後初めて、息を吸える感覚を持てるようになりました。

とてもとても長い時間はかかりますが、自分のために『安心』を獲得していくことは、今後も生きていく上でとても大切なことでした。

やっと自分の人生を取り戻し始めている

そして、ある程度改善が見られ、また、自分の中に受け皿ができてくると、心理学や加害心理で学んだことが、やっと自分の中に入ってくるようになりました。

たとえば…自分の傷とは境界線を引いて分けて、“人”を知っていくこと。

傷と分けることで、寄り添える部分が見えてきたり、私自身も生まれてからこれまで、少なからず誰かを傷つけたことがあることを振り返ったりしながら、怒りや恨みや傷に“飲み込まれない”心を作っていきました。

また、「私より酷い目にあった人がいるのになぜ私が苦しんでいるのだ」という歪んだ自責の念も、少しずつ受け止めることができるようになりました。

行動と人の内在するものを分けるカウンセリングは今も続けています。

私の場合は、子供の頃に虐待の経験もあり、病院の回復プログラムや繰り返さないためにMY TREEペアレンツプログラム(別コラムで書く予定)を受けていたこともあって、その学びが理解を助ける材料にもなりました。

今でも足がすくんだり、発作が出ることもあるけれど、少しずつ家でもくつろげるようになり、カーテンも開けられるようになってきました。

行動範囲も広がり、できなかったことができるようにもなり、何より笑顔が増え、今やっと自分の人生を取り戻し始めたところです。

そして現在、私の事件現場は取り壊されて、未来を育む保育園になっていたことも、私の傷を癒してくれ、背中を押してくれるものとなりました。

これまで探してきた道のりで見つけた、私にとって傷が癒え希望となるものとして、犯罪や加害者の方と向き合う活動も個人的に取り組んでいます。

苦しんだあの頃のものを抱えながら生きるのは決して簡単ではないし、息をしているだけでぎりぎりだった。

日が昇るのは地獄の始まりだし、一分一秒が永遠に感じられるほど苦しかった。

でも、あの頃の私に敢えて、力強く、

『がんばれ!!!』

と言えるくらいの未来をつくって生きたいと思っています。

私にできたからあなたもというわけでは決してないけれど…

同じような苦しみを持つ誰かの苦しみが少しでも癒えるよう、心から祈っています。

Text by

障害手帳2級。本格的に治療を始めてから約16年。
今もまだ葛藤は抱えていますが、治療や取り組んできた事が実を結び、笑える日も増えました。更に理解を深めていき、これからも自分にとっての学びと向き合っていきたいです。希望や夢だけでなく、もやもや、どろどろな自分もぎゅっとしながら、出来ることを精一杯頑張ります。

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