視覚障害者の職業選択事情、そして当事者の私が感じること
1 1
2023.8.19
かつて、視覚障害者の選択できる職業は限られていた。全盲の私も、その現実に直面し悩まされたことがある。だがICTの進化により、その状況は変わってきている。今回は視覚障害者と仕事について、私自身の経験も踏まえて綴ってみる。
執筆:山田 菜深子
かつて、視覚障害者の選択できる職業は限られていた。全盲の私も、その現実に直面し悩まされたことがある。
だがICTの進化により、その状況は変わってきている。見えなくても、見えにくくても、さまざまな分野で活躍できるようになったのだ。
今回は視覚障害者と仕事について、私自身の経験も踏まえて綴ってみる。
夢見るだけで終わり
大きくなったら何になりたいか。子ども時代の私はよくその答えを考えた。なりたいものはいろいろあったのだが、その1つがウェイトレスだった。
ところがそのことを大人に話したら、衝撃の答えが返ってきた。
「うーん、それはちょっと難しいんじゃないかな?見えてないんだし、お客さんにぶつかったりしたら大変じゃない?」
確かにそうかもしれない。そうかもしれないのだが、それを言ってほしくなかった。
全盲の私には、選びたくても選べない仕事がある。その現実を意識することになった、切ない記憶である。
視覚障害者の職業選択の自由。これはかつて、かなり制限されていた。子どもだった私も、それを肌で感じた。三療(按摩・マッサージ・指圧、鍼、灸の総称)の道は比較的選びやすそうだったが、ほかの道には大きな壁があったのだ。
声優さんにもあこがれるし、ラジオパーソナリティもやってみたい。そんな夢はあったが、「どれも夢見るだけで終わっちゃうんだな」と思うしかなかった。
マッサージなども素敵な仕事ではあるが、自分には合っていない。そう考えていた私は心配になった。将来、自分にとってよい仕事に出会えるのだろうか、と。
ICTに感謝
だが、「ICTの進化」というものが希望をもたらしてくれた。画面読み上げソフトを駆使することにより、見えなくてもパソコンを使って文字処理などができるようになったのだ。選べる職種がどんどん広がっていったのである。
そして実際に、大人になった私は事務職を経験した。パソコンの画面読み上げソフトはもちろん、紙の書類を読むための音声読書器など活用できる支援機器もたくさんあり、困ることは少なかった。あこがれの仕事とは違っていたものの、「自分に適している」という意味でよい仕事にありつけたと感じた。
在宅勤務という形だったので、通勤がほとんどなかったのもよかった。職種ばかりでなく、働き方の選択肢も以前に比べて広がっているのである。ICTに心から感謝だ。
活躍の場はさまざま
では、ほかの視覚障害者は今どのような職業に従事しているのだろうか。
私はこれまで盲学校やその他の場で多くの視覚障害者仲間に出会っているが、彼らが選ぶ職業のトップといえばやはり三療である。
江戸時代、全盲の杉山和一が鍼の施術法の一つである「管鍼法」を考案し、按摩技術が習得できる視覚障害者教育施設を開設した。これをきっかけに、三療は視覚障害者の専業といわれるまでに発展していった。近年はこの分野に進出する晴眼者が増え、三療業全体に占める視覚障害者の割合は減少傾向となっているが、今も三療は視覚障害者の代表的な職業と言える。
だが、そのほかの場で力を発揮する人も多い。パソコンスキルを磨いて事務系の仕事に携わる人もいれば、システムエンジニアとして働く人もいる。視覚障害者福祉関連施設で当事者職員として自身の経験を活かす人もいれば、図書館司書や教師として活躍する人もいる。Webライター、録音された音声の文字起こしなど、在宅で専門性を活かして働ける職種を選ぶ人もいる。
また面識はないが、視覚障害のある医師や弁護士、歌手やピアニスト、芸人なども活躍中だ。ニュースなどで耳にする機会は増えてきている。喜ばしいことだ。
まだまだ知られていない
このように、視覚に障害があっても選べる職種は多い。ただ、そのことはまだあまり広く知られていないというのが現状である。それが原因で就職先を見つけるのに苦労する人も少なくない。
また就職できたとしても、仕事を与えてもらえないなどの問題にぶつかり、悩む人もいる。
この状況を変えるため、私たちがどのように生活しているのか、どのようなことが可能なのか、まずは実情をしっかり伝えていく必要がある。そう強く感じて、私はこうしてコラムを書いている。
今後、今ある仕事の多くはAIやロボットが担うようになるといわれているが、一方で新たな仕事も生まれるはずだ。視覚障害者の可能性も、さらに広げていけるかもしれない。
「これしかできないから、まあしょうがないか」ではなく、「これになりたい」「これがやりたい」と思えるものを選ぶ。視覚障害者にとっても、それがもっと当たり前のことになればと願っている。「見えない」「見えにくい」を理由にあきらめることなく、夢に向かって歩けるように。