「ショウガイ」の「ガイ」はどう表記する?全盲の私はこう考える
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2022.4.26
障害、障がい、障碍。いったいどの「ガイ」を使えばいいのか。これは私の周りでもよく話題に上がっていることだ。デリケートな要素を含む問題なので、答えを出すのは難しい。これについて、先天性全盲の私はどう考えているのか。当事者としての思いを語ってみたい。
執筆:山田 菜深子
障害、障がい、障碍。いったいどの「ガイ」を使えばいいのか。これは私の周りでもよく話題に上っていることだ。
「『害』が一般的なんだからあえて別の字にする必要はないんじゃない?」「『害』は印象よくないからひらがながいいんじゃない?」と、意見は大きく分かれる。デリケートな要素を含む問題なので、答えを出すのは難しい。
ではこれについて、先天性全盲の私はどう考えているのか。当事者としての思いを語ってみたい。
現在一般的に使われる「害」は間違い?
もともと、ショウガイは「障碍」と表記されていた。「妨げる」を意味する「碍」が使われていたのだ。ただこの「碍」は常用漢字ではないため、「害」が採用されることになったのだという。
ここで問題が出てくる。この2つは別の字なのだから、当然意味にも違いがあるのだ。
「害」には「傷つける」「よくない影響を与える」といった意味がある。「妨げる」の意味もないわけではないが、「碍」に比べてネガティブな印象を持たれる字と言える。
これだと「ショウガイのある人は害を及ぼす存在」というように受け取られそうで不快だ。そんな意見もあり、反対の声は根強い。
ただ私は、「害」でも間違いではないような気がしている。確かに正しい意味を持つ漢字は「碍」なのだからそれに戻すのが筋なのかもしれないけれど、「害」もショウガイの本質を明確に表す字のように感じられるのだ。
私にとってショウガイは、やはりよくない影響を与えるもの。私を傷つけるものでもある。もちろん目が見えなくても楽しく生きられるし、見えないことがプラスに働く場合だって時にはあるのだけれど、それでもどちらか選べるとしたら見えないよりは見えるほうがいい。それが私の認識である。
何かと便利なこの時代、生活環境はかなりよくなってきている。とはいえ見えないことで「害」と向き合わなければならない状況はまだまだ頻繁に訪れる。その現実をリアルに表すためにも、「害」という漢字を使うことには意味があるのではないかと思う。
だから私は、自分自身で文章を書くときには「害」を使うようにしている。自由に選択させてもらえる場合、本来の字やひらがなを選ぶことはない。今の時点ではこの書き方が一番自然に思えるのである。
表記を改めるのには注意が必要
とは言っても、表記の仕方一つで誰かに嫌な思いをさせることになるなら、それは避けたい。字を変えることで当事者や関係者の気持ちが少しでも楽になるというのであれば、私も喜んで「がい」でも「碍」でも使おうと思う。目に見えるところから改めていくというのは大切なこと。それをきっかけにさまざまなことがよい方向に進むかもしれない。
ただ、そうする場合は充分に注意する必要がある。目に見える部分を変えてしまうと、目には見えないさまざまな問題まですべて解決したかのように錯覚する危険性があるからだ。そうなるとしたら何のために表記を改めるのかわからない。
本当に大事なのは、表記の仕方そのものよりも、何を目指してどのような意図で表記するかということ。何かをよりよくしようとするなら、それを忘れてはいけないと思うのだ。配慮して表記を改めるつもりでも、形だけになってしまう、差別意識が残ってしまうというのであれば何の意味もない。
それよりもっと大切なことがある
「ショウガイ」の「ガイ」をどう表記するべきなのか。私なりの結論としては、「やっぱり答えは出ないな」ということになる。正直に言ってしまえば、答えを出すことはそれほど重要ではないように思える。私が漢字を目にしていないからそう思うのかもしれないけれど、結局のところ「どっちでもええんとちゃいます?」という気持ちが大きい。
確かに表記の問題も無視はできない。でももっと切実な、今解決しなければならないことはほかにたくさんあるはずなのだ。まずはそこから手をつけていきませんか、というのが私の思いである。
そうは言っても、最後に少し愚痴を言わせてもらえるなら、こうして書くことを仕事とする者にとっては「表記がいろいろある状態」というのは非常に困るわけで……。何とかならないものかな、と日々感じている。
こんなふうに悩まないためにも、「ショウガイ」という言葉など必要なくなればいいのに、と切に願う。「ショウガイ?何それもう死語だよ」といつかみんなで笑い合えたらどんなに素敵だろう。そんな未来を夢見ている。