「障害者」だからこそ「障害」と書く理由
~難病「ベスレムミオパチー」の私の場合
1 1
2022.12.28
日本語って難しい、と感じること、よくありますよね。
言葉の表記も色々あって、きちんとした正解もあれば、曖昧なものも多くあります。
今回は障害者の目線で考える「障がい」の表記について、書いてみます。
執筆:山口 真未 Mami Yamaguchi
時々、議論になる言葉の表記、「障害」か「障がい」か。
明治時代まで遡れば、「障碍」という表記もありますね。
私個人としては、感じ方は人それぞれなので、完璧な正解はないと思っています。「害」という漢字に、イヤな感情を覚えるなど、人それぞれの考えがあって当然。
ただ私自身は、あえて「障害」と記載しています。
これには私の想いと、ある方の言葉に影響された経緯があります。
言葉の本質は?
言葉に正解はないと思っていますし、1人でもイヤだと感じる人がいるなら、どの方法が良いのか検討することは大切です。
でも言葉が変われば、目の前の問題が変わるかと言われれば、別のお話だと思っています。
言葉が変わっても、例えば私の場合は病気が治ることはないですし、目の前にある段差を自力で超えられるようにはなりません。
お店の前に1段でも段差があれば、どんなに行きたいお店でも入ることはできない。
これが紛れもない現実で、早く解決したい問題ですよね。
言葉も大事ですが、目の前の不便さ、問題を解決する方も大事。
ないとは思いますが、言葉さえ統一すれば問題が解決するよね、と考えては困ります。あくまで問題への第一歩であって、色々な問題の入り口にすぎません。
さらに奥深くに、問題の本質が山ほどあります。
私個人としては、本質としてある目の前の問題に、しっかり向き合うことの方が重要で大切だと考えています。
お店の前にある段差しかり、働くこと、お金のこと。
軽度でも重度でも障害があるからこそ、やはり生活に関わる色々な部分で不便さがあることは事実です。
「障害」か「障がい」か。
他にも「チャレンジド」「障碍」など言葉の表記の検討は、国でも行われています。
ただ言葉の見た目よりも、実際の本質である中身の問題を解決する方へ多くの時間と労力を注ぎたい、と思っています。
考えるためのきっかけ
実はこの考えに至った1つのきっかけが、ある方のお言葉です。
その方は障害者ではなく、健常者の方。
私自身は生まれつきの病気による障害者のため、本質的には健常者の気持ちにはなることができません。
だからこそ、すごく納得し、嬉しく思い、ステキな考えだとも思いました。
その言葉とは。
「障害者」とは「社会の障害」でも「身体に障害を持つ者」でも無く、「社会との関わりの中で障害に直面している者」という意味であり、私たちはその障害を一つひとつ解消していくことが求められている、と理解しています。
その考えから、私は「障害」を「障がい」と置き換えることには反対です。
「障害」という言葉が引っかかるからこそ、それを社会的に解消しなければならないわけで、表現をソフトにすることは決してバリアフリー社会の実現に資するものではありません。
この2つはTwitterに投稿された言葉で、引用をさせていただきました。
つぶやいたのは、現千葉県知事である熊谷俊人さん(当時は千葉市長でした)。
私が千葉県に住んでいるからこそ、目に入った言葉でもあるかもしれません。
しかし、しっかり目の前の解決する問題を認識しているからこその言葉だと感じました。
そしてこの問題に対する意識は、障害者側も大事にしたい考えだとも思っています。
病気のこと、障害のこと。何が問題で、どう解消したいのか。
伝えなければ、相手も方法がわからずのまま。
簡単なことではないですし、心理的に辛いこともあります。
でも言葉に引っかかると感じてくれたことをチャンス!ぐらいに思って、利用するのもアリ。
無関心ほど、悲しいものはないですし、そのままでは何も変わらない不便のままです。
力の向ける矛先を問題解決へ
私が子供のころに比べたら、少しずつですが優しい世界になっているとは感じます。
それでも、まだまだ他に出来ることは多いですし、解決するべき問題も多い。
問題と大きく考えると身構えがちですが、ほんの少し変えるだけで存分に力を発揮できて、働ける人が多いのも事実。これは障害だけでないはずです。
バリアフリー社会は、障害者のためではなく、誰にとっても優しい社会。
そう考えれば人それぞれの向き・不向きがあるのと同じように変わっていきたいです。
「障害者だから何かをする」ではなく、「人それぞれに合わせていく」ための一歩に、時間も労力も使いたい。
だからこそ、あえて私は「障害」という言葉を使って、きっかけ作りを続けたいです。