私とてんかん②
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2022.10.11
私はずっと自分の「てんかん」を隠して生きてきた。37歳のときに自分が「てんかん」であることを伝えた上で介護施設で働き始めた。その現場では、私のような障害を抱える労働者についての理解は想像以上に無かった。
執筆:小泉 将史
22歳のある日、私はいきなり意識を失い、痙攣を起こして泡を吹いて倒れた。救急車で運ばれた先の病院で医師から「てんかん」と診断された。
てんかんとは、突然意識を失って反応が無くなるなどの「てんかん発作」を繰り返す病気だ。てんかん発作は一時的なもので、発作が終わると元通りの状態に回復する。
30代に入って、てんかんの意識消失発作は完治とは言えないまでも部分寛解に至っていたが、この頃から二次障害とも呼べるてんかん性精神病の陽性症状(幻覚・シュナイダーの一級症状。)が出てきて、私を苦しめていた。
そのような中、37歳の時に自分がてんかん障害であることを伝えた上で、内定を貰って介護施設で働き始めた。重度の心身障害を抱えた高齢者への介護が優先される現場では、てんかん障害を抱える労働者への理解はなかなかに難しいものだった。
配属された初日の事を今でも覚えている。
私「障害を抱えていますが、宜しくお願いします」
とある先輩介護士「そんなもん知らん。」
私「え?施設長から聞いていないのですか?」
先輩介護士「障害を言い訳にする奴はワシは好かん!」
と言ってその先輩介護士は、その場を去っていってしまった。
私が受けた印象は「お前の個別具体的な心身の症状について構っていられない」と言う感じだった。私は障害について現場の上司や同僚達に伝えづらく、また、周囲も私に対してどう扱えばよいかわからず、といった感じだった。
入社してから3ヶ月目。紙媒体を通して職場全体への周知があった。
「新人職員に対する不適切な言動が見られる。注意してほしい」
注意喚起がされた。私は内心ホッとした。新人職員とは私の事だから。
しかし、それで改善する事はなかった。
面接時に自分の障害を伝えればそれで良いと言うものでもなかった。私は「どうせ忙しい現場に配慮を求めても駄目だろう」と諦めに似た境地でひたすら耐えて働いた。そんなある日、施設長に呼び出された。
施設長「君が職場の和を乱しているという話があってね」
私 「!?」
施設長「戒告処分、1ヶ月間の減給処分とします。あと反省文を提出するように。」
そして職場のホワイトボードに私の名前の戒告処分通知が張り出された。私は屈辱を感じた。
採用して頂いたことに感謝しているが、施設長は障害者にとって働きやすい環境を整えることにあまり関心が無い様子だった。
20代の頃は「いかに周囲にてんかん障害について気づかれず、健常者の世界に溶け込めるか?」がテーマとなっていた。差別や奇異の目で見られることを恐れたのかもしれない。
ある日、職場で発作が起きてしまったことをきっかけに「てんかんを会社に伝えずに働くことは難しいのかもしれない」と知った。
最初から素直に言うべきなのかもしれない。周囲に心を開いて頼ればよかったのかもしれない。そんな後悔から、障害を隠さずに働くようになった。
ただ、「自分の障害を伝えた上で働く」というのは私が想像していた姿とはちがった。
面接時に自分の障害を伝えればそれで良いと言うものではなかった。障害者雇用をしている会社のリーダーなら障害者にとって働きやすい環境を整えることに熱心だというわけでもない。
私にとっては「かつて恐れていた差別や奇異の目は実際にあるのだ」と確信する出来事にしかならなかった。
もしかしたら、その現場は忙しくて、労働者の状況に配慮できるほどの余裕がなかったからかもしれない。障害者雇用の現場は、私が出会った職場のようなところばかりではないと信じたい。
配慮は、障害者雇用枠で採用されれば必ず得られるものではない。受けられる配慮はありがたく受けて、受けられない配慮は、仕方がないと割り切るしかない。
その為には会社に期待しすぎず、固執せず、転職や副業で自分のペースで出来る仕事を探す等、働き方を柔軟にする必要もあると思った。